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ズームイン!

追悼 中村哲さんと朝倉地域

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故 中村 哲 氏

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アフガニスタンで銃撃に倒れた中村 哲医師は朝倉市と深い関わりがあり、住民の皆さんから心から慕われておられた偉大な存在でした。

中村医師はアフガニスタンを飢えから救うために灌漑用水路の建設を始めますが、江戸時代に自然の水流を利用し、大がかりな機材も必要ない朝倉市の山田堰をモデルにしておられました。何度も何度もアフガニスタンから視察に訪れられ、その度に朝倉市周辺の住民のみなさんは講演を聞いて、自分たちでこの「アフガン65万人の飢餓を救った山田堰」を記録したり、230年も前の江戸時代に山田堰を作った庄屋の「古賀百工」の功績を讃えるなど、活発な活動を継続してきました。

朝倉かわら版、ふらっと!!あさくら(朝倉かわら版の前身の住民ディレクター番組)など地域の独自のメディアで発信してきました。住民の皆さんからの追悼の意を込めてあらためて公開致します。

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東峰村での講演(東峰テレビから)

​アフガン65万人救った!!灌漑工事の「古賀百工」

(2017年3月4日作成ページ)

山田堰

三連水車

堀川用水

ペシャワール会

​中村哲医師

江戸時代の今の朝倉市に「古賀 百工(こが ひゃっこう)」という庄屋がいました。この地域は筑後川沿岸でありながら荒地が多く住民は飢饉で苦しんでいました。そこで福岡藩は筑後川に堰を作り、水路となる堀川用水を作り田んぼに水が行くように努力し飢えを克服しようとしていました。しかし相次ぐ災害や飢饉で堰を大きくし、用水を広げる必要に迫られ庄屋となった百工は先頭に立ってこの計画を遂行しました。難工事を克服して完成した新堀川開通26年後、山田堰大改修の命が藩から百工に下り、73歳ながら農民と共に命をかけて取り組み、百工は81歳で生涯を終えました。この古賀百工の灌漑工事は現代まで継承され、最近はアフガニスタンで難民救援に取り組んできた中村哲医師や現地の皆さんに受け継がれています。

中村医師は医療が必要とアフガニスタンに入ったものの食料確保が優先課題と判断し、灌漑工事に取り組み始めました。今では山田堰をモデルに完成した灌漑用水で65万人の農民が救われているとのことです。日本中を見て回った中村医師が参考にしたのがこの古賀百工が作り上げた山田堰や堀川用水の仕組みだったのです。現在では中村医師と山田堰に関わる水土理ねっと山田堰の皆さんとの交流が深まっています。

フリップ上は山田堰

下はアフガニスタンの堰

古賀百工の偉業について

百工の灌漑用水・動画編

山田堰・堀川用水・三連水車​

百工の灌漑用水・図解編

住民ディレクターがわかりやすく!!

チャリカメで下流へ

百工の「志」、アフガン難民救う中村哲医師に継承

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